こんにちは、オトナシです。
最近今までやっていた仕事を辞めようと思っていて
そんな時に今回はふと自分の生活を振り返った時にこんな理由があったから教師にならなかったなぁ(あ、今は教職には就いてないですよ!)
と思ったのでそれについて書いていこうと思います。
教師を目指している方の参考に・・・なるかな?
もしかしたらならないかも・・・しれない。
あくまで個人の主観ですよ!
はじめに
まず今更ですが
ぼくは四年制の大学で教育学部に所属してました。
一か月実習も行きましたよ!
ただ附属の学校があったので自分の地元に「凱旋(笑)」は出来ず、それだけが心残りです。笑
小学校の一種の免許も持っているんです。(エッヘン)
とはいえ、取ろうと思えば誰でも取れるものですしとりあえず乗らないけど車の免許持ってます
みたいな感じでペーパードライバーと一緒ですね。
就職の際はすでに教師になるつもりは全くなかったので教員採用試験等の勉強は全くしませんでした。
では、ぼくが教員になろうと思ったきっかけはなんなのか?
過去を振り返って思い出してみます。
教師になろうと思ったキッカケは?
キッカケ1
そもそもぼくが教育学部に入ろうと思った一番のキッカケは
「人に教えることが好きだから」
です。
また、それによって不特定多数の誰かが
「ためになった」とか「教えてもらえてよかった」なんていうプラスの感情を抱いてくれることが一番ぼくの嬉しさに繋がるかなと思います。
キッカケ2
もう一つのキッカケは
「先生が好きだったから」
ぼくは幸いにも小学校から大学に至るまで
自分の担任や関わってきた大人の人について良いイメージを持っている方が多いんです。
しかし最悪な担任だったとかそういう関係が多い人は先生という立場を嫌いになるのは当然ですよね。
友人の中にはそういうことを言う人も多いですけど
それを考えると
ぼくはかなり恵まれていたんだろうなと思います。
自分の関わってきた先生に好きな人が多かったので先生っていいなと思いました。
主なキッカケはこんな感じですね。
では次はこんなキッカケがあったけれども教師を目指さなかった理由を書いていきましょう。
なんで教師志望じゃなくなったの?
キッカケ1:閉塞感
みなさんは学校とはどんな場所だと思いますか?
ぼくは実習を行ったり、大学での授業で学んでいくうちに学校が
「閉鎖されているコミュニティ」
だと感じてきたんです。
閉鎖されてるってどういうことでしょう?
想像がつきますか?
もちろんこれはいい意味でも悪い意味でもそうなんだと思います。
ちなみに学校が表立って空間的に閉鎖された原因は2001年に起こった「付属池田小事件」でしょうね。
そういった痛ましい背景から、今まで以上に子供や教師以外の人間を排斥するような動きが発生し、地域からも空間的に隔離されてしまったような異世界に学校が存在するという変化があったのかなと思います。
けれども、学校を閉鎖しないで誰でもいつでもはいれるようにしろ!
とかそういったことをぼくは言いたいわけではないので誤解が生じないようにここできちんと言っておきます。
閉塞感というのは少し自分の中でも表現が難しいんですが・・・。
決まり事ばかりで窮屈なんですよね。
国が決めた内容しか教えちゃいけないとか、答えが決まっている道徳とか?
あ、この道徳なんですけど
きちんと解説の方には「こうなっている!」みたいな答えがきちんと書いてあるんですよ笑
他にも「○○くん」ならこの答えを言ってくれそうだからというように事前に教科書の内容を考えたときに答えが出なかったら当てる算段をつけたりするんです。
これが道徳の話ですからね!?
どう考えてもただの出来レースでした。
答えはないよと言いつつも、国がこうなってほしいという理想に近づけるのが道徳ですね。笑
というように自分が学校現場に大人になって触れてみたときに自分はこの窮屈さにはついていけないなと思ってしまったんです。
いうならこんなの純粋な子供を洗脳してるのと同義かなーとか思っちゃったんですよ。
ぼくのブログをよく読んでくれている人ならわかると思うんですが、ぼくが人に教えたいことってそういうことじゃないんですよね。
ぼくは国のためとかいう以前に自分が楽しんでくれるような可能性を伸ばしてあげたいと思ってしまっているんです。
ただ!
しっかりといい点もあるのでリカバリーもしておきます。
いい意味だとしっかり子供が守られます。
子供を預けている親の立場から考えるとたぶん外敵がいない環境はたぶん安心・・・ですよね?
キッカケ2:公平性を重んじる
日本は特にそうなんですけど、教育の仕方として
「いかにして中間層を増やすか?」
ここが主軸になっています。
伸びるところをもっと伸ばしてあげようというよりも、下の層のベースアップを目標としてみんなで仲良くゴールしましょう。
という側面が強いです。
こんな環境だと出る杭は打たれやすくなってしまうんです。
ある程度成熟した大人だと、そんなまわりの意志なんて関係なく自分の伸ばせるところを伸ばそうと考えることが可能かもしれません。
しかし、学校が相手にするのは自己の確立もままならない子供ですから、一度出る杭として叩かれてしまったらもう一回行動を起こそうと思う子もほとんどいなくなってしまうのは当然かなと思います。
そうすると上を目指そうとせずにくすぶってしまう子供が多くなってしまうことも頷けますよね。
実際にみなさんがこれを聞くとどう思いますか?
だったら簡単な話先生が頑張ればいいじゃん!
とかそう思うかもしれませんが、実はそれだけでなんとかできるような単純な話じゃないんです。
それの原因の大きな1つに関しては次のキッカケで詳しく見ていこうと思います。
キッカケ3:時間が圧倒的に足りない
先ほどのキッカケ2と関連してしまうんですが、教師は圧倒的に時間が足りないんです。
これには様々な社会問題も関わってくる内容で、教師だけが時間が足りないというわけではありません。
今の日本が税率の増加などの経済的な事情から個々人が働く時間は多くなり、親の共働きなどによって、本来は親が子供に教えてきたことまでもすべて教師が教えざるを得なくなってしまったことで相対的に教師の仕事量が多くなっていることに1つの原因があると思います。
今でも教師の多くは自分の教える子供を幸せにしたいと願っている人は多いんです。
けれども子供のすべてを面倒見るほどの余裕がなくなっているということにも注目して欲しいです。
例えば、ある学校の保護者からこんなことを言われた先生がいたそうです。
「うちの子供がゲームにはまっているからいつも夜遅くまでやって寝る時間が遅くなってしまうんです、何とかしてください」と・・・。
近年オンラインゲーム等が低年齢層にも浸透している中で、友達との付き合いももしかして含んでいたりと全ての状況を把握していないので誤った視点から言うことになるかもしれません
色んな方面からの意見があると思いますが、ぼくはこう思いました。
・・・・え?
それって先生の領分超えてない?
なんで親の自分がルール決めたりしてないのにゲームを色々買い与えるの?
それって親と子供の話し合いで普通解決するものじゃないの?
とか色々と思ってしまったんです。(だからこそ親の共働き等の話も若干最初に挙げたんですけど・・・。)
もし、そういった会話がされていない中で「やれ宿題だ、勉強だ、塾だ」なんて言われて子供との信頼関係育めますか?
ちょっと話がずれてしまったので戻しますが
他にも「箸のもち方」や「歯磨きの仕方」、もちろん子供が学校にいる時間も多いのである程度までは許容範囲だと思いますけど・・・。
家で普通に生活していく中で必要な知識や生き方くらいは家で教えて、そこまで教師に押し付けられるのは理不尽だなぁと思って教師を目指そうという思いが徐々に薄れていきました。
これらが主なキッカケシリーズですかね・・・?
教師だってただ一人の人間である
ここでは、もし今現在教師を目指している方、自分が親の立場で子供を預けているので教師について知りたい方に対してまずはこの点だけはしっかり認識しておいてほしいということで書いています。
あ、事前にこの「時間」についても知っておくとこういったことの理解も進みやすいかなと思います。
先生も親も対等たれ
昔は教師というと先生至上主義的な側面を持ち、うちの息子を叩いてでも叱ってくれてありがとうございます!!
とか、そういった闇の部分も若干あったと思いますが、今はそんなこと時代ではありません。
先生も子供の親も立場は対等なんです。
なにか最近は親の自分のほうが偉いとか、お前の子供を見てやっているんだから先生である私のほうが偉いとかそんな非生産的で無意味な対立があるのが残念ですが・・・・。
子供を預けている親の立場にいる方々へ・・・
教師の中にはいろいろな考え方の人がいます。
それは自分が今まで生きてきた道筋が人となりを形成していますよね。
その人たちもあなた方と同じ人間なんです。
ネガティブな言葉を投げ続けられると凹んでしまうのは当たり前です。
自分の大切な子供を見ず知らずの人に預けるのは不安だとか
新任で自分よりも年下の若造に
という気持ちはわからなくもないですが、自分の子供の担任先生に対してすぐに「あの先生は駄目だ」とか「早く変えて欲しい」とかそういう不毛な批判だけで終わらせるのはやめにしませんか?
そういうことを言う人たちは自分がされて嫌なことをまずしないようにしてほしいです。
むしろ強くネガティブな発言をする人に限って、自分は忙しいからと保護者参観などの後に開かれる話し合いの場には参加しない傾向があると思います。
徒党を組んで陰でこそこそするのではなく
まずは一度でいいから担任の先生の話を聞いてあげてください。
そして自分が思っていることを一度担任の先生にもぶつけてみましょう。(もちろん感情でではなく、論理的にですよ?)
子供を育てるのは先生だけではありません。
まわりにいる大人がみんなで育てていくものです。
建設的な話し合いによって、実はちゃんとあの先生色んなこと考えてたんだとか、親から意見をもらえたからできる範囲でやってみようと先生側も新たな発見をして信頼関係が生まれていくかもしれません。
なのでまずは保護者の方も
先生と対等に話し合ってみてください。
自分の子供が好きならなおさら、みんなで協力することにメリットしかありませんよね?
教師を目指している人へ・・・
小中高と教師を目指している方は色んな熱い思いを持って教師という職業に魅せられている人が多いことだと思います。
自分だったら、こうやって教えてあげたいとか信頼される先生になりたいとか様々な希望を胸に抱いて教師を志している人が多いですよね。
そんな皆さんにはしっかり
教師もみんなと同じ一人の人間である
ということは覚えておいてほしいと思います。
例えば、教師になったって結婚して自分にも子供ができることや親と過ごす時間などの大切にしたい時間はきっと生まれてくるでしょう。
多くの時間を自分の教え子に費やすことは教師としての責務ではありますが、まずは自分が大切にしたいと思う自分の子供や家族のことも考えられるようになってください。
最初は余裕がなくてそんなことを考えられないかもしれませんが、それはどんな職種に就いたってみんな同じです。
そんな環境の中で教師だけ常に自分の生徒たちのことだけ考えなければいけないんだとは思わなくても大丈夫です。
もちろん自分が大切にしていきたいのは自分が教えることのできる子供たちだけだ!!
と言って生涯独身を貫いたりする人もいるので、そういう人は教え子が死ぬまで一番大事という選択肢を選んでいるのでそれも正しいですよね。
あくまで自分が生涯大事にしたいと思うことや人に対しての話です。
もし、その対象が自分の家族や子供だったらきちんとプライベートでは優先順位1番にしてあげてください。
自分を支えてくれる存在がいてくれるとわかるだけでもきっと毎日が楽しくなりますから。
教えるという行為に関してはぼく自身教師経験はなしなのでアドバイスにならないかもしれませんが、教師を志す人はその気持ちが強いほどに「燃え尽き症候群」になりやすいので、こういった息抜きや趣味・家族を大切にしてもいいということを知ってほしかったので書いてみました。
少しでも参考になれば幸いです。
おわりに
二日連続長々と書いてしまいましたね。
こうしてぼくは教師になりたいというキッカケや教師について専門的に学んでくうえで徐々に本当にやりたいことは教師として子供に教える行為ではないのかもしれないと思いました。
「教える」という行為自体はとても好きなので、「国に決められたいい子」の育成が大部分を占める教育は本職の先生方に任せることにして
ぼくは「より楽しく生きる」とか「良い所を伸ばし続けられる場所」などの環境作り(ざっくりし過ぎ。笑)ができるようにしていきたいと思っています。
決してぼくは教師不要論とかそういったことを述べたいのではなく、教師にできること、親にできることをしっかりとみんなが理解することで、教師の負担を減らしていければいいなと思って「ぼくが教師を目指さなかったわけ」を書きました。
教師を目指している人には、自分が教えたい!
と思うことをぜひ自信を持って教えていって欲しいと思います。
もし需要があったらこういう教師とか学校についても書ければいいな。
一応専門的に学んではおりましたので!笑
聞きたいことがあったらいつでもどうぞ!
ではでは、今回の記事はここまでです。
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